01from ferris to you

“おたより”

20220410

4月10日が「女性の日」であることを知っていますか。

日本では第二次世界大戦敗戦まで、女性には選挙権も被選挙権もありませんでした。女性がはじめて立候補、投票できるようになったのは、1946年4月の戦後最初の衆議院選挙の時であり、一挙に39名の女性が当選しました。この投票日の4月10日を記念して、1949年に「婦人の日」と定められました(1998年からは「女性の日」)。

はじめて投票した女性たちの大きな期待に、この初の女性国会議員たちはしっかりと応えました。皆で女性にかかわる政策については超党派で協力することを約束し、実際に新憲法制定の審議の際に、「男女は本質的に不平等である」と強調する男性議員の多くの発言を排して、第14条の「すべて国民は、法の下に平等であって、…性別…により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という案の通過を実現しました。当時にあっては、性差別禁止規定を盛り込んだ憲法は世界的にも先駆的なものでした。

実はこの39名の女性議員の内にフェリスの卒業生が2名いました。

一人は榊原千代さん(旧姓、間野)です。静岡県三島市生まれで1917年にフェリス和英女学校本科(現在のフェリス女学院中学校・高等学校)を卒業して高等科に進学、その後青山女学院英文専門科本科に転入し、卒業後、雑誌『婦人の友』の記者になります。1928年に福島高等商業学校教授の榊原巌(がん)と結婚し、福島市に転居します。1931~33年には夫のヨーロッパ留学に同行して、自らもドイツのマールブルグ大学やベルリン大学、イギリスのセリオーク大学で宗教学を聴講し、戦時中には福島高等女学校の教員も勤めています。そして、1946年の衆議院議員総選挙に、政界と家庭の浄化、不敬罪の廃止を訴えて、福島県から立候補して当選(1947年総選挙も当選)。さらに、片山哲内閣の時には女性初の司法政務次官(1948年1月21日~2月15日)にも就任します。「私はいつも家庭婦人の立場から物事を考え、人間の常識が専門家の超えることができない法律の壁を打ち破った」と胸を張って振り返っています。またフェリス女学院の理事(1949年10月~)、1951年には女性ではじめての理事長、短期大学長を務めています。

榊原千代さん
(フェリス女学院資料室紀要『あゆみ』70号所収)

もう一人は松尾トシ子さん(旧姓、斎藤)です。横浜市生まれで、フェリス和英女学校本科に在学中に関東大震災(1923年)に遭遇し、1926年に卒業。横浜サンモール学院(1872年にマザー・チルド他4名によって創立、アジア初のインターナショナルスクール)英文科にも通い、横浜YMCA外語学校の教師を務めた後に、横浜印書学校を設立し、日本女子英学院と改称、院長となります。1946年1月に松尾常一(神奈川県会議員)と結婚。人びとが飢えている中、「食糧問題を解決するには政治家になるのが早道」と決意して、1946年の総選挙に神奈川県から立候補して当選、1960年まで6期14年衆議院議員を務めます。

松尾トシ子さん
(フェリス女学院資料室紀要『あゆみ』70号所収)

初の女性国会議員39名を調査した岩尾光代氏(歴史ジャーナリスト)は、「初の女性代議士となった人物にいえるのは、…すべて強い向上心を持っていたことである」と指摘しています。フェリスで培った力を基に、日本の歴史上初の試みである女性国会議員というチャンスを活かし、全力で取り組み、そして、人生を切り拓いていった榊原さんと松尾さんでした。

以上は75年前の話ですが、この39名を上回る女性が衆議院選挙で当選したのは、なんと2005年9月でした。ようやく43名になりましたが、直近の2021年の総選挙でも女性の当選者は45名にとどまっています。これは衆議院議員の9.7%に過ぎず、世界の190ヶ国中168位という少なさです。世界経済フォーラム(WEF)による「ジェンダーギャップ指数」で、日本は2021年に156ヶ国中120位であった、すなわち男⼥平等度が⾮常に低いと、皆さんも聞いたことがあると思いますが、この低さの大きな原因に、国会議員に占める女性議員の少なさがあります。

歴史を前に進めるのは根気のいることですが、少しでもおかしいと思った人たちで協力をし、チャレンジしていくことが大切だと思います。

文学部コミュニケーション学科教授 井上惠美子

引用文献:
岩尾光代「最初の女性代議士となったフェリスOGたち―榊原千代と松尾トシ子の足跡―」フェリス女学院資料室紀要『あゆみ』第70号、2017年6月、16~28頁参照
江刺昭子+史の会『時代を拓いた女たち』神奈川新聞社、第1集・2005年4月、第2集・2011年6月。

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