03special
“よみもの”
20151220
紫式部には、何人ものライバルが存在したようです。『源氏物語』と前後して、『源氏』と同様の、あるいはそれ以上の規模をもつ作品が次々に生み出された形跡があります。が、それらの物語は生き残ることが出来ませんでした。『源氏物語』の時代、作品は写し取られることによって次の世代に伝えられてゆきます。「この物語を写し伝えたい」という動機が弱体化すれば、作品自体の生存が脅かされるのです。『源氏物語』が書きおろされてからちょうど1000年。熱心な読み手が絶えることなく『源氏』の前に現れ、『源氏』を守り続けたのであります。
『源氏物語』の読み手の中には、ずばぬけた創造性を持つ人々が含まれていました。藤原定家しかり。世阿弥しかり。かれらは『源氏』の中に発見した「美」や「感動」を、自分の作品に移しかえることを試みました。『源氏』から発する水流は、何世紀もの時空を超え、日本人の心をひたしてゆくのです。
夏目漱石に『彼岸過迄』という作品があります。いくつかの短編が全体としてひとつの長編を形成する。漱石は、そんな目論見をもって『彼岸過迄』を書き始めたらしいのですが、前半の2、3話は傑作とは申せません。気が乗らぬまま、身辺の出来事を何とか文章にしている。そのような印象があります。ところが、「須永」という青年が主人公として登場するに及び、小説の文体はにわかに緊張化し、あの「漱石の世界」が立ち現れて来るのです。須永は、学歴と云い、また資産と云い、めぐまれた立場にあるにもかかわらず、自分自身の出生に疑いがあるため、物事に対して積極的な姿勢がとれない(かれの理解者である叔父は、この性格を「内へ内へとぐろを巻き込む」と表現します)。かれはいとこにあたる姉妹と交際するうち、姉につよく惹かれるようになります。・・・
この辺で気がついた方もおられるでしょう。須永という青年は、『宇治十帖』の端緒をなす「橋姫」の巻の、薫大将に生き写しなのであります。須永と千代子。 薫と大君。おそらく漱石は、謡曲「浮舟」によって『宇治十帖』の世界に触れることを得たのでしょう。『彼岸過迄』は、須永が明石の浦から叔父へと書き送っ た手紙によってしめくくられるのですが、『源氏物語』から発する流れは、近代文学の中枢部にまで及んでいるのであります。