03special
“よみもの”
20151219
大学とは何のためにあるのでしょうか。大学という組織は中世イタリアのボローニャにおいて誕生しましたが、当時の大学の役割は、学問的真理の探究と大学の後継者の育成でした。後には、教会や宮廷のエリートを育成することも大学の目的となっていきます。
時代が下り、17世紀末から18世紀のドイツでは、啓蒙主義に則った諸大学がたくさん創設されていきました。これらの啓蒙主義的大学は、時代の要請に応じた役割を担っていくことになります。第一に、国家官吏の養成です。当時のドイツの領邦は、小規模ながら近代国家としての体裁を整えようとしていました。そのためにも優秀な官僚が必要だったのです。第二は、実用的・実際的学問を育成することでした。国家を経済的にも政治的にも強くするためには、実用的な学問が必要とされていたのです。そして、第三が、金儲けです。皆さんは驚くかもしれませんが、当時の国家は、大学の設立・運用によって金儲けをしようと考えていたのです。
その一番良い例が、ドイツのゲッティンゲンGottingen大学です。ゲッティンゲン大学は、ハノーファー選帝候であり、イギリス国王でもあったゲオルク2世(ジョージ2世)により1737年に設立された(実際の授業は1734年から行われています)、啓蒙主義的大学の代表です。ゲオルク2世は、ゲッティンゲン大学の設立を大臣であったミュンヒハウゼン男爵Gerlach Adolph Freiherr von Munchhausen(『ほら吹き男爵の冒険』で有名なミュンヒハウゼン男爵の従兄弟Karl Friedrich Hieronymus Freiherr von Munchhausen)に任せるのですが、彼はいかにしてゲッティンゲン大学を用いて国に富をもたらすかに心を砕きました。
大学で儲けるためには学生をたくさん連れて来なければなりません。学生が使う金銭によって街や国は潤うのです。そのためには大学を有名にする必要がありま す。そこでミュンヒハウゼンはドイツの諸大学から有名教授を引き抜きにかかりました。教授には高給を支払い、高い地位や名誉ある称号を与えると約束しまし たが、ドイツの諸国も有名教授の重要性を認識していましたから、引き抜きを抑えにかかります。結局、第一級の学者をゲッティンゲン大学に招聘することはで きませんでした。ただし、いまは第一級とは言えなくても将来性のある若い学者や講義力に定評のある教師を獲得します。講義がうまい教授たちを手に入れたこ とが学生には好評で、ゲッティンゲン大学の発展につながりました。
学生を集めるためには、快適な街作りも大切です。田舎町だったゲッティンゲンには舗石が敷き詰められ、街灯が取り付けられました。水道や郵便制度も整備されました。また、街での快適な生活を保障するために、特権を与えて、多くの職人や出版業者を国外から誘致しました。
大学施設の充実も不可欠です。講義棟のみならず、解剖学教室や植物園、天体観測所なども造られました。なかでも図書館は充実しており、当時としては破格の3万冊もの書物が所蔵されていたと言われています。その他にも室内馬場やフェンシング競技場、室内球技場などの建設も計画されていました。
学生の就職先についても配慮を行いました。当時、大学設立のためには、領邦君主の特許状があれば十分でしたが、わざわざウィーンに使節を送り、神聖ローマ帝国の皇帝特許状までも取得しました。それは、皇帝特許状をもつ大学の法学学位取得者のみが神聖ローマ帝国の帝室裁判所や帝国宮廷裁判所で働くことができたからです。皇帝特許状を受けた大学の卒業生のみが帝国事項に関わることができ、帝国法を教える権限をもっていたのです。大学設立権が領邦君主の特権であると主張したところで、学生には何の利益ももたらさないことをミュンヒハウゼンは熟知していました。
大学の宣伝も忘れませんでした。ゲッティンゲン大学の法学教授であったシュマウスは、次のように述べています。「大学についてのちょっとした自慢やまやかしは、大学の輝きや名声のために必要と言ってもいいぐらいだ」。彼によると、人々は刊行物や著作などを通して、大学の名声を「言いふらす」べきであり、そのような大学の方が、「まったく愚かな沈黙の中に引きこもる大学よりもずっと発展していく」と述べているのです。
実際にミュンヒハウゼンは、ゲッティンゲンに関する宣伝ための著作の作成をグルーバーという学者に依頼します。ところが、この著作はあまりに大部なものになり出版が開校に間に合わなかったのみならず、歴史学者には役に立つが、大学の宣伝にはまったく役に立たなかったので(学者の書いた本にありがちなことですね)、ミュンヒハウゼンを大いに怒らせることになりました。
当然ながら当時の学生のニーズに合わせた実用的な授業が行われました。とくに法学は重要視されました。中世を通して神の学問である神学が「学問の女王」と して君臨しており、哲学(学芸諸学)などは「神学の婢女」などと呼ばれていました。しかし、啓蒙主義の時代になると法学が一番重要な学問となっていったの です。
また法学は、貴族を大学に誘致する上でも大切でした。当時、法学部で学ぶことは貴族の慣行になっていたからです。ゲッティンゲン大学教授のミヒャエリスは、「現在の流行によると、身分の高い者たちは、実際のところは何の最終目的もないにもかかわらず、ただ学ばないでいることが嫌なために、大学に行き、法学を学んでいる」と述べています。箔を付けるためだけにモラトリアムで大学に行っていた貴族も多かったようです。勉強に興味がない彼らは学生という身分で遊興三昧の日々を送るのですが、当時の大学はレジャーランド化していたとも言われています。
なぜ貴族を誘致するかというと、彼らが街や国に大金を落としてくれたからです。貴族学生の受講料は、通常学生の2~6倍でした。基本受講料は半年で4~6ターラーでしたが、有名教授の個人授業を受ける場合には、100ターラーを請求されることもありました。一学期で3,000ターラー使った学生もいたようです。貴族たちは遊興費にも糸目を付けませんでした。近隣の街までのソリ滑りは、冬期の人気スポーツでしたが、これには一人15ターラーがかかり、それは員外教授1ヶ月分の給与に相当したのです。
ハノーファー選帝候国のある高官は、「法学部に属する一人の伯爵か男爵の方が、100人の臓物喰らいの神学生よりも、より多くの金銭を国にもたらす」と述べています。当時、神学部には貧乏学生が多く、値段の安い「モツと野菜の煮付け」を主食としていたからです。この高官は医学部に対しても冷淡で、「規則正しく人々を墓地に送り込むため、10人から15人の若き死の天使が生み出されれば十分だ」というのが彼の説でした。ミュンヒハウゼンも「法学部に著名で卓越した人々を配することが何よりも必要である。なぜなら、このことは必ずや多くの高貴で裕福な者たちのゲッティンゲンでの勉学を促すからである」と言っています。さらに彼は、教授たちに、身分の高い学生に対しては、恭しく接し、 気持ちの良い態度をとるようにとさえ要求しています。
貴族への配慮として、とくに貴族に人気のあった国法学が重視されました。なぜなら、この学問は神聖ローマ帝国の統治制度を扱う、領邦国家の枠を超えた学問 であり、ゆえに全ドイツ貴族の興味を勝ち得たからです。宗教に関しても配慮しています。ゲッティンゲン大学はプロテスタントの大学ですが、カトリック貴族 のために、当地でのカトリック礼拝を許可しています。また貴族のために、乗馬、ダンス、フェンシング、球技、音楽などの教科を取り入れたり、礼儀作法や道 徳の講座を置くことが提案されたりもしました。
これらの方策は成功を収めます。ゲッティンゲンの教授たちが貴族を好むということは、良く知られるようになりました。その結果、ゲッティンゲン大学は貴族化が最も進んだ大学となり、その点でドイツの他大学の追随をまったく許さなかったのです。ゲッティンゲン大学の著名な法学教授ピュッターが、俗物根性丸出しで、「1788年までに11名の王子と148名の伯爵と14,828名のそれ以外の者が学籍登録した」と誇らしげに述べているように、ゲッティンゲン大学には、金持ち貴族が大勢到来したのです。そして、彼らこそが国に金の卵を産む鶏だったと言えます。
ゲッティンゲン大学は発展を続けました。大学史学者オイレンブルクは、1790年の時点で、ゲッティンゲン大学を、ハレ大学、ライプツィヒ大学、イエナ大学とともにドイツの4大大学の一つに数えています。これらの4大大学には、ドイツ全大学の学生の5分の2が集まり、他の中・小規模大学30校に残りの5分の3の学生が通っている状態でした。小規模大学の多くは、大学改革が行われず、中世以来の古色蒼然たる制度を残しており、廃校の瀬戸際に立っていました。ミヒャエリスなどは、「幾つかの大学に望まれるのは、祝賀式典ではなく、安らかな死なのである」として、小規模大学の廃止を強く主張していました。
改革が行われなかったドイツの小規模大学同様、17,18世紀のたいていのヨーロッパの大学は、強い衰退傾向を示していて、大学はすべて解体すべきだという論が幅をきかせていました。当時、学問的研究は、ほとんどが大学の外で、すなわちイギリスの「王室アカデミー」やフランスの「アカデミー・フランセーズ」などのアカデミーで行われていたのです。
ヨーロッパの大学は学問の進歩から取り残されるのみならず、学問の発展を阻害するものとして存亡の危機に立たされていました。実際、フランスの諸大学は特権階級の養成機関とみなされ、フランス革命により1793年に全面的に廃止されてしまいます。1808年にナポレオンは「帝国大学」を創設しますが、それはフランス全土の国立学校の教師すべてを含む中央集権的な「教育行政機関」であり、従来の大学とは根本的に異なったものでした。また、「帝国大学」は専門学校主義をとり、その役割の中心は、官吏や専門職の養成でした。
それに対してドイツにおいては、学問的研究は大学外のアカデミーではなく、もっぱらゲッティンゲン大学などの近代的大学のなかで行われ、研究と教育が常に結び付いていたのです。このやり方が、理念は異なるものの、1810年のベルリン大学の創設において結実する19世紀の新人文主義的大学改革の核心となりました。ドイツでは大学という制度が活力を持ち続け、学問の中心としての地位を保ち続けたのです。それは、ゲッティンゲン大学などにおける啓蒙主義的大学改革の成功が大学への信頼をつなぎ止めたからだと思います。
確かに「金儲け」というのは、たとえ国のためとはいえ、あまり褒められた動機ではありません。そのための金持ち・貴族優遇政策も同様です。いま現在こんな政策をとる大学があれば、周りから厳しい非難を受けるでしょう。
しかしながら、その目的を達成するため、実用的な学問を導入・発展させ、大学施設や講義科目を充実させたがために、大学は生き残ることができたのです。国家にとって大学は「学問の採鉱場」として学問的のみならず、経済的にも重要だったからです。
大学がその地位を維持したことは、大学教授の地位にも良い影響を及ぼしました。ドイツにおいて大学教授は、全般的に見てその地位はそれほど高くはありませんでしたが、社会的重要性を失うことはなく、むしろ影響力を強めていったのです。それは、18世紀にドイツの各大学が学生を引き寄せるために、有名教授の引き抜き競争を行ったからです。この競争により有名教授の価格と地位はせり上がっていきました。19世紀の新人文主義的大学改革以降は、「金儲け」という目的はまったく影をひそめることになりますが、有名教授に対する引き抜き競争はますます強まり、教授に対する価値は上がり続けました。そして学者たちは自らの「共和国」をつくっていくことになります。
現在のドイツでも大学教授はきわめて高い地位を得ています。日本とは比べものにならないぐらいです。肩書き社会ドイツにおいて「教授」という肩書きは、水戸黄門の印籠のような力をもっています。プロフェッサーと名乗ると扱いがまったく変わってくるのでまさに驚きです。
法律学においてもドイツの大学教授たちはきわめて重要な働きをしました。1900年に施行されたドイツ民法典(BGB)の基礎をつくったのは、法学教授たちの研究活動でした。したがってドイツ法は「教授法」と呼ばれています。大学教授がほとんど法体系に影響を与えず、裁判官が法秩序を形作ってきたイングランドとは大違いです。イングランドでは近代になるまで、実際に使われるイングランド法が大学では教えられてこなかったのです。
大学と金儲けというのは不思議な、というか不純な組み合わせかもしれませんが、18世紀の啓蒙主義的大学において重要な役割を果たし、ドイツの大学発展に一定の貢献したことを覚えておいてください。
学問は驚きから始まります。ワクワクから始まります。人間の俗っぽい欲望が最も高尚だと思われている大学を動かしたというのは面白くありませんか?
■参考文献■
ハンス=ヴェルナー・プラール(山本尤訳)『大学制度の社会史』(法政大学出版局)
大木雅夫『比較法講義』(東京大学出版会)
荒井真「18世紀ドイツにおける官房学的大学政策」(国際交流研究創刊号)
荒井真「儲けを出さない大学は無益なのか-18世紀後半ドイツの大学論-」(国際交流研究6号)