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“よみもの”

20151219

「文化」や「無意識」について調査法・実験法から探る

文学部 コミュニケーション学科 潮村公弘 教授

私が取り組んでいるテーマは文化と心理です。この「文化」とは、内側から見ている限りはあまりにも自然なもので、その存在に気づくことが難しいものです。「日本や日本社会の文化を強く意識するようになったのは、外国に出かけた時や海外で生活するようになった時」といったような声をよく耳にするのは、自文化(自分が所属している文化)の中にいるとその影響を感じとることが困難だからです。それにもかかわらず、人々の態度や行動を強く規定しているのが「文化」です。

つい20数年ほど前までは、先端的な研究の世界でも、欧米の人たちを対象として見出されてきた意識や行動が、基本的には世界中の人たちに適用できると考えられてきました(本当にそのように考えられていたのです!)。しかし、日本人研究者による研究を含む近年の文化心理学的な研究によって、この考え方は大きな修正を余儀なくされることになりました。

このような状況のおかげで、「文化」や「文化的自己観」(ある文化において共有されている自己についての素朴な見方のこと)について、日本人を対象として検討した研究も、国際学会や海外の専門雑誌で注目を向けられるようになりました。心理科学的な研究の包括的な目的は「人間観」の提唱にある、と言われることも多いのですが、日本人を対象とした日本での研究も、心理科学研究のフロンティアに貢献することができる時代なのです。

文化について研究するといっても、その方法は多種多様です。コミュニケーション学科では、人文社会科学的な研究方法を幅広く、かつ専門的に勉強できるカリキュラムが構成されています。皆さん自身が、専門的な学習・研究を進めていく中で探り出してきたテーマについて、最適と思われる方法(研究法・技法)を組み合わせて、実証的に検証し、考えていくことができます。

私自身がこれまでに主に扱ってきた研究法は、調査法(質問紙調査法)と実験法です。調査法では、個人単位でのミクロな変数だけではなく、社会意識論で取りあげられるようなマクロな変数(デモグラフィックな変数=人口統計学的な変数)についてもできるだけ取り入れることを心がけています。また、実験法では、できる限り最新の認知科学的技法を採用するようにしています。

実は私自身は、当初は実験法のほうに主軸をおいていました。質問紙調査法では、当人の本心(本当の心)には迫れないと考えていた側面があるからなのです。質問紙や調査票に対して、自分の本当の気持ちとは異なる回答をすることも可能です。何を測定されているのかが当人にもわかるということは、回答を意識的にコントロールすることもできると言えるからです。しかしその後、調査法で測定できる内容も、実験法で測定できる内容もそれぞれに機能を有していて、両方を考慮することで最適な測定が可能なのだとする研究パラダイムに巡りあって、今のスタイルに落ち着いています。

さて、「文化」以外に、自身の態度や行動に大きな影響を与えながらも、その存在に気づくことが難しいものに「無意識」があります(学術的には「非意識」という言葉の方が一般的です)。「文化」が、外から自分の文化を見ることによってその文化の存在や特徴に気づきやすいのに対して、「無意識」は自分自身の「無意識」ではあっても、通常はその存在や特徴に気づくことができません。何しろ「無意識」の定義の中に、「自分が明確に、あるいは正しく意識することができない」という要素を含んでいるからです。ただし、近年の認知科学研究は、この「無意識(非意識)」を科学的に測定することを可能にし、「無意識」について扱った研究が急速に増加してきています。さてそれではどのようにして、自分自身の無意識を、あるいは他者の無意識を測定できるのでしょうか? それについては、リンク先をご覧下さい。
https://implicit.harvard.edu/implicit/japan/

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~TEA BREAK~
日本人は集団主義的か?

私たち日本人は集団主義的であり、お互いに協調的であると多くの人が疑いなく思っているでしょう。そして研究の世界でもしばらくの間、それはなかば「前提」とされてきました。

しかし、今となっては、心理学研究者でそのように言う人はまず居ません。日本人は集団主義的で相互協調的という考えは、実は正しくなかったです(厳密には、とても限られた意味でのみ、日本人は集団主義的であるに過ぎないのです)。私たち日本人は集団主義的でもなければ、協調的でもなかったのです。

集団主義についての一般的な定義は、“個人の目的よりも集団の目的を優先する”あるいは“個人の目的を犠牲にしてでも集団の目的遂行を優先する”というものです。私たちは、個人の(自分の)目的を犠牲にしたことがどれだけあるでしょうか。

私たち日本人が重視するのは、周りの人から嫌われたくない、のけ者にされたくない(排斥されたくない)ために、自分の意見を主張しない(あるいは主張できない)だけなのではないでしょうか?

これが現在の文化心理学でホットなトピックのひとつです。皆さんはどう思いますか?

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