03special
“よみもの”
20151218
大学の文学部で日本文学を教えていて、就職活動が本格化し始めた頃に、ゼミの4年生から「文学を研究することが役に立つのでしょうか」という質問をされることがあります。彼女たちは、就職活動の中で、面接担当者から嫌というほど「ふーん、夏目漱石を勉強して、卒業論文を書いて、社会に出て何か役に立つの?」とか、「宮崎駿って、アニメだよね。それって文学なの?現代社会の中で何の役に立つの?」などという質問を受けて、何としても反撃に出たいという考えで私の所に来ますから、ここは一つ大いに面接担当者の鼻をあかし、誤解を解くために、また彼女たちが4年間かけて積み重ねてきた学びの成果とプライドにかけて、次のように宣言(宣戦布告)するように彼女たちに伝えています。
文学部で文学を学んだ私の学びが役に立たないものであると仰いますが、私は読み解きのプロであると自負しています。ここでいう「文学」とは、必ずしも文字で書かれたもの、文字化されたものだけではありません。詩や小説や物語などの文学作品はもとより、マンガ、アニメ、絵画、映画、映像、地図、広告(CM)、あらゆる説明書、その場の雰囲気、人の顔色など、読み解くことのできるものは、山ほどあるのです。あらゆる種類のテクスト(事象)を読み解き、読み解いたものを自分のことばで発信するプレゼンテーション能力を、私はフェリスの日本語日本文学科で学んでいます。
ほとんど泣き出しそうな様子で私の研究室を訪れた彼女たちも、私の宣戦布告を聞いて、自信を取り戻して、笑顔で就職活動の現場に戻って行きます。それにしても、「文学は役に立たないもの」といった社会的通念を生み出す「文学」の正体って一体何なのでしょうか。
私の研究テーマである夏目漱石は、「科学者の研究対象に対する態度」は「解剖的」「破壊的」「実験的」であり、「其成分を分解し極限まで細分化する」のに対し、「文学者の解剖は解剖を方便として総合を目的とする」と『文学論』の中で指摘しているのですが、まさに「文学」は「科学」のようにバラバラに細分化して終わるのはなく、バラバラにされた一つ一つの要素を再構成して学問だというのです。「文学」は「虚学=現実で役に立たないもの」などではなく、「実学」なのです。「文学」は英語で「Fiction(作り物・虚構)」と訳されますが、「作り物」「虚構」だからといって現実社会で役に立たないことになりません。なぜなら、現実社会でのコミュニケーションも、その内実は相互の立場や役割などに応じて変化する「作り物・虚構」であるといえるからです。では、「文学」の何が役に立つのかというと、それはそこに描かれている人間の社会的・言語的関係性を読み解くことにあります。「文学」は様々な場面で人間がどのように振る舞い、考え、感じるか、高度なシミュレーションを行います。そして文学の世界も、現実の世界も、場の雰囲気・状況・相手のしぐさや表情など、読み解くことのできる無数のテクストと繋がっています。読み解き、考え、理解する経験を積み重ねる中で、自分に必要な情報を選び出し、他の情報や知識と関連付け、自分の頭で考えながら読むことで、私たちは「自分のことば」を獲得し、自分のことばを発信することで、他の人々と共に考え、共に行動することに繋がります。「読むことのプロ」「読み解きのプロ」「表現することのプロ」を育成することを目指す。それがフェリス女学院大学文学部日本語日本文学科で学ぶことです。
大学で学ぶ「文学」は、社会に出て、自分を高め、役立てることのできる、最も基本的な「実学」です。様々な文学作品と、それにまつわる社会的・歴史的現象を素材として、社会に出て自分を高め、役立てることのできる実践的能力を養いましょう!