03special

“よみもの”

20151218

演劇の生命力

文学部 英語英米文学科 由井哲哉 教授

私の研究対象であるウィリアム・シェイクスピアは、言わずと知れた大文豪ですが、彼が芝居を書いた当時は劇作家の地位も低く、文豪どころか一劇団の座付作者にすぎませんでした。彼にとって芝居とは大衆を喜ばせ、うまくいけば金儲けもできる芸能の一手段でした。では、400年も前に書かれたそのような大衆相手の娯楽作品を、今の時代に上演したり研究したりする意味は何なのでしょうか。特に外国文学の場合、どれだけ努力しても母国人のように言葉の細かいニュアンスまで理解することは難しいでしょう。外国人であるわれわれは、たった数時間で上演される芝居を、場合によっては辞書を引きながら何ヶ月もかかって読むわけですが、ある意味でこれはとても空しい行為なのかもしれません。

ただ、そのときふと思うのは、われわれの心には時の試練に耐えて生き残ったものに対する敬意やあこがれが根強くあるのではないかということです。考えてみれば、紀元前から現在に至るまで2000年間変わらずに存在するものはごく限られています。パソコンや携帯電話を含めた機械類は誕生してからまだ数年や数十年しか経っていないものが多いですし、われわれの日常生活の営みに関わる「物」のほとんどは2000年前には存在していなかったと思われます。最先端の理系の学問をしている人には怒られそうですが、工学も医学も生物学も2000年前には存在していませんでした。

突き詰めてみると、大昔から存在し、今後も何千年にわたっておそらく生き残るものは、人間の根源的な営みに関わる部分だけだろうと思います。パソコンなどなくなっても人は生きていけますが、人間関係や喜怒哀楽といった感情、食生活、生殖行為、神への祈りなどはそれなくして生きていくことはできません。そして演劇も紀元前から存在していました。演劇とは生身の人間が板の上で虚構の物語を演じるという素朴な営みにすぎません。にもかかわらず、その素朴な行為が2000年以上も前から現在に至るまで続いていることに私は驚嘆の気持を抱きます。進化し続ける理系の最先端の学問に対して敬意を払う一方で、昔から相も変わらず同じ行為を繰り返しながら時の試練に耐えて生き残っている文化に対する畏敬の気持がわれわれを観劇や演劇研究という行為に向かわせているのだと思います。

今の世の中では、文学や演劇は役に立たないものの代表として取り上げられることが多く、就職活動でも文学部卒業の学生は肩身の狭い思いをしています。英語教育でも、作り物の文学作品を読むのはやめて、時事英語を教材にしてくれと強い要望が寄せられます。しかし、学生の皆さんにいつも言うのは、事実を取り上げる新聞記事が一日で顧みられなくなるのに、400年も昔のフィクションがなぜ今も読み継がれるのかということです。ニュースは役に立つが、フィクションは役に立たないと皆が決めつけていますが、われわれの日常生活の言葉は本当にニュースのような情報を伝達するだけの言葉で成り立っているのでしょうか。親子、友人、夫婦、上司と部下、恋人など、われわれが普段の人間関係の中で使う言葉は、嘘をついたり、なだめすかしたり、心にもないことを言ってみたり、騙したり、持ち上げてみたり、仮定の話をしたりというように、むしろフィクションの中の言葉の方が多いのではないでしょうか。人生にとって役に立つかどうかの尺度は人それぞれによって異なるのに、己の価値基準だけを当てはめて人を判断しようとする今の風潮に私はとても違和感を覚えます。

シェイクスピアの作品が今後どこまで生き残っていくのか、私にはわかりません。ただ、彼の作品は相も変わらぬ人間関係の葛藤をこれでもかと徹底的に描き切っています。人間の根源的な部分が変わらぬ限り、彼の作品も時の試練に耐えながら生き続けるのではないかと思っています。板の上で生身の人間が様々な言葉を口にしながら虚構の人生を演じるという演劇の生命力を私は信じていますし、若い皆さんとそうした演劇のもつ力を一緒に確認していければと願っています。

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